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福岡・九州地域演劇祭
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2007年 05月 03日
まずは、チェルフィッチュをよんでくれたイムズホールに感謝。
ぜひとも見てみたいカンパニーだった。動員的なことをかんがえるとなかなかたいへんな部分があると思うし、一般の福岡の観客に受け入れられるかどうかも微妙なところだと思う。少なくとも東京で評価されたようなポイントと同じような部分では評価しえないだろう。チェルフィッチュが一般の観客に評価されてここまできた、ではないだろうからあたりまえなのだけど。 日本に新たな演劇の方向性を示したチェルフィッチュを旬の時期に呼んでくれたことには心から敬意を表したい。 大まかに芝居の説明をすると、ドラマ性のあるストーリーではない。 初対面で渋谷のラブホテルに5日間逗留しつづける男女。とその話を聞いた友人が、男女のことや、イラク戦争のこと、デモの風景などを、見たようにあるいは伝聞調でたんたんと話す。あるいは説明する。という舞台。 セリフがこれまでの芝居と違っていて、普通のしゃべり口調(繰り返したり、順番が前後したり、話が飛んだり、自分の話を確認したり、言い直したり)で進められる。役者的な発声法ではなくて、普通の人が普通にしゃべっている声で。この手法がこの劇団のもっとも大きな特徴のようだ。 途中で10分の休憩が入って、全部で90分超の芝居。前半はあまり何も考えずにみていてやや集中が切れてしまったのだが、後半は劇構造の分析という視点で見始め、かなり興味深くみることができた。雑ぱくな感想だがおもしろかった。 全体としては隙が無く、方向性に対してのクオリティも高く、きわめて完成度の高い舞台だと思えた。 感想はいろいろあるのだけど、まず第一に70%のつぶやきシロー的なものを感じた。それはお笑い(演劇)の世界に新たな表現手法を持ち込んだという点、センターにはたてないだろうが存在感を示しているという点、そしてしゃべり方が似ているという点だ。 おそらく似たようなことはもう誰かが言っていると思うけど、生のチェルフィッチュをはじめてみたということで。 次に国内の演劇の閉塞感が成立させた舞台だということも感じた。もっぱら斬新なのは演劇手法である。それを評価できるのは一般の観客ではなく、批評家やそれに近い層だろう。直接的には一般の観客の興味とは違うベクトルだと感じた。 ストーリーのドラマ性の少なさなどストーリー性へのアプローチは青年団に代表される静かな演劇と近いものを感じた。既存の手法に満足できない一部の関係者にこそ、表現者の意図するところをくみ取って共感できる芝居なのだと感じた。 初対面で渋谷のラブホテルに5日間逗留しつづける男女。これはあり得ない展開だ。その理由を説明するシーンはほとんどない。男女の背景の説明もないし、ただその5日間の経緯をつらつらと説明していくシーン。 こういう伝説的な性関係というところを中心におく手法は、文学でも映画でも見られる手法で、本作のエンターテイメントな部分かと思われる。 通常はそれにいたる人間の内面を掘り下げたり、破滅していく人間風景という展開になっていくのであろうが、本作はそれも拒否し、ただたんたんと二人は5日間で30回を超える交わりを終えて、フリーターという日常に帰って行くという内容を渋谷の風景の点描も交えながら描写する。 この構成の渋さにはうならせられたが、静かな演劇の手法の影響ということで一応の説明はつけられるかもしれない。 個人的にもっとも感嘆したことは、現代の若者の一部の層の生態を表現するためにはかなり有効な手法だ。とかんじさせられたこと。この舞台は若者が理解できないという中高年の世代に対して、現代の若者の一部の層の生態を理解するには絶好の教材となりうるだろう。 特に、他者との距離の取り方・距離感。 これまでの演劇にはなかった、しゃべりことばの整合性の無さをそのまま(厳密にはそのままではないが)舞台にのせることにより、これまでの世代とは遠目かつ曖昧に距離をとる若者の他者との人間関係成立のあり方をビビットに表現することに成功している。 あいまいなものをビビットに表現することは大変難しいことだと思う。これは今までの芝居では見たことがない。 公演終了後のアフタートークでは「アドリブみたいに見える」とか、そういうところからスタートした。想定される福岡の観客層からすれば妥当な展開だろう。 今回の舞台は一見普通のしゃべりの手法をとっているが、それでも多分にノイズが消去されており、個人的には、十分に演劇的で作為的であると感じた。ただ、ノイズとして整理される部分がこれまでの手法とは大いに違っているというだけで(その視点を持ち得たことが大変貴重なのだが)。これをアドリブみたい。と思う観客が大半であると想定したなかでの公演というのはそれだけでひとつ興味深いものがある。 これは、反戦劇である。という岡田氏の発言があったが、反戦劇としては根拠や思想性がはっきり見えず「何となく戦争はないほうがいいっていうか・・・」レベルのものであり、現代の若手の一部の層がなんとなく持っている反戦的な意識を書き出したに過ぎない。そしてそこへの価値判断は特に行われていない。(これが、もうちょっと前の時代なら、より明確な反戦の意識になり、さらにはなんらかの具体的な行動にまでつながるのだろう。) アフタートークでは、それを「戦争との距離感」というテーマで語るのだが、四捨五入すれば無関心に属する距離感 本作の中心となる男女は、あったその日から渋谷のラブホテルに5日間居続ける。戦争が始まったことを知ってはいるが、テレビをつけないことで戦争の情報が入ってくることを遮断し、それでも5日間の滞留のあとには、戦争が終わっていることをほのかに願う。願うとも言えない微妙な願いである。「なんとなく反戦」以上に さらに本作では、登場人物が反戦デモの風景を見るという点で、ほのかに反戦への空気感をただよわす。反戦デモを評価するわけでも否定するわけでもないが、デモに警察の監視がつくということが、異常なことであるという外国人の感想を伝聞で語ることで、国家権力への反駁を語っているという見方が成立する。 しかしそれも、なんらかの トータルとして、社会へのアプローチという点には重きが置かれていない芝居である。その部分で評価できる芝居ではないと思うので「反戦劇」といってしまうことは、逆効果なような気がする。ムリに肩に力を入れて反戦を唱えたり、反戦のための論理補強をするというやり方を岡田氏が意識的に選択していないということはよくわかる。 ただ今まで誰も描けなかった現実を描きたい。とかそういうふうに言えばいいのではないかと思った。 本作で触れられる、イラク戦争の話題がそのまま、ホリエモンの話題や多摩川にタマちゃん出現の話題であったとしてもかまわないような気がする。そこであえてイラク戦争を指向した。という点では反戦劇なのかも知れない。 演劇人は日本の演劇の成立の過程からみても一般的に左翼的な思想が多い。しっかりとした思想に裏付けられた人から、なんとなくのあいまいな人までいるが、この点岡田氏は後者に位置づけられるようである。 これ自体は批判の対象となるものではなく、自分の感覚的に正直なところを着地点にしたことで、現代の若者の一部の層の雰囲気を明確に描き出すことに成功しているともかんがえられる。 アフタートークでは、おそらく前者に位置づけられる佐々木記者(朝日新聞)とのトークで、佐々木記者からこの点を突くようなトークが展開された。もっとしっかり主張しようという内容だったように思う。佐々木記者の立場から岡田氏の立ち位置が歯がゆいことはまったく理解できる。 観客は200人前後か。 ゆるい演技やちょっとした間の取り方など、芝居の中心とは直接関連のない小ネタの部分で20%くらいの観客のちょっとした笑いを呼び起こすことが多数。12回くらいはあっただろうか。この観客の反応は、他地域の観客の反応とどう相違があるのか興味深いところ。 なんかムリにでも笑えるところを探そうという欲求が20%の観客にあるのかもしれないという印象を持った。芝居の楽しみ方は人それぞれだし、表現者の想定に入っている反応だろうとも思うが、その姿勢ではこの芝居の重要な要素のいくつかは見えにくいんじゃないかと思った。 アフタートークで、言いよどんだり繰り返したりループしたり整合性がなかったりする、台詞手法についての質問がある。これについて、テープ起こしの話がある。それをやる中で、整理されるものの中に「豊かな」ものがあるのではないかと考えた。という岡田氏の発言がある。 この後に、佐々木記者より「豊かな」ものとはなにか?という問いがあるが、これに対して岡田氏が明晰な答えができなかったことが、大変不思議に思われた。 後に会場からの質問でも「豊かな」ものについての解釈があった。高崎の考えとしては、その豊かなものに注目したゆえに、若者の人間関係の距離感の表現に成功したわけで、 チェルフィッチュの手法は前提としての静かな演劇抜きでは成立せず、静かな演劇とされる演劇がテキストになった以降の世代にしてはじめてでてくる手法だと理解した。日本語というものに真っ向から新たな分析を与えている点が高く評価されることも肯ける。 しかしながら思うのは、劇団四季、遊眠社、第三舞台ときて、その後既存の手法にとらわれない新たな手法が出る度に、その演劇手法のマーケットは縮小しているのではないかということだ。近年脚光を浴びる芝居は、劇評家やそれに準ずる層の評価は高いが一般の観客からは乖離の度合いを深めている傾向があるのかも知れない。 演劇というメディアが日本ではすでに身のもっとも良い部分は食べ尽くされてしまって、あとは残った部分をほじくるようなところしか残っていないのではないだろうか?という悲観的な思いもする。そうではないことを信じたい。 チェルフィッチュのたどり着いた領域が、賞賛に値するものだということに異論はないが、ここまでの評価が与えられることに、新しい手法を渇望するという現在の国内演劇の閉塞感が現れていると言えるような気もする。 と、以上好き勝手なことを書いたが、自分は生のチェルフィッチュを初めて見るのに対し、ずっと前から見ている人がいて、すでにおんなじような指摘はされているのだろうと思う。 ただ一応その辺のことは不勉強にして知らないので、感じたままを書いてみた。 ---- 大切なことを書き忘れていた。 「全体としては隙が無く、方向性に対してのクオリティも高く、きわめて完成度の高い舞台。」 ---- 5/8追記 きららの芝居を見て気づいたのだけど、たとえば写真。 なぜその光景をうつしたのか?ということには十分な意味があり、ときとして何の説明や言葉が無くても、ある写真が強力な政治的なメッセージを持っていたりするなぁということを思い出した。 となると、言葉で説明しなくても練られたメッセージがそこにあるということは十分にありうる。でも、演劇の場合「言葉」のメディアなので、「言葉」を発することがほぼ不可能な写真に対する分析手法はそのまま演劇には持ってこられない。 明確な論理によって深化されているかどうかとは別次元で、「説明(価値判断)」が無くても、反戦であるかどうかは十分に主張できる。と考えをやや修正。でも言葉のメディアである演劇で、「説明」しないというのは、やはり素直に物足りない。 舞台上で、説明しないけれども、ある風景を切り取ってくることで、ほのかな主張をのせている芝居が増えていて、その芸術性の高さにはうならせられるのだけど、それとは別に、しっかりとした考えがあってわざとそれを言ってないのか、しっかりした考えはなくてなんとなくなんだけど、なんとなくなりに表現してみた。っていうことなのかは、みる側にも判断が求められる部分になりそう。 思わせぶりで、深読みさせようっていうことではないだろう。 ---- 5/12 追記 泊さんと話して これまでセオリーとされてきた、演劇のお約束をどんどん踏み外して、それでも演劇表現として成立しているさまをみて、あたらしい演劇表現の可能性(まだまだ新しい面白い表現が眠っているのではないか)を感じた。 ということを聞いた。まったく思い浮かばなかった。でも、まったくその通りだ。 自分が全く気づかなかったけど、説明されると全くその通りだと思う。という話を聞くのはめちゃくちゃに面白い。 ---- 5/13 思いついた。 あれは反戦劇ではなく厭戦劇というのが、より真に近い表現ではないだろうか。 これも言葉の定義によるのだけど、以下のような定義による。 反戦・・・ある程度の情報により、ある程度の思考がなされて、戦争に反対している。 厭戦・・・ 反戦劇というのは耳にするが、厭戦というのはもうちょっとぼんやりした雰囲気のようなもので、これを描き出すのは本当に難しいことだと思う。それを成し遂げたことも、すごいことだ。
by sailitium
| 2007-05-03 10:08
| 観劇して|感想・批評
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Comments(4)
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by
sota
at 2007-05-10 00:31
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高崎さん、こんばんは。
高崎さんの意見には90%賛成です。 ひとつだけ、思想的な立場ということに関していえば、 佐藤優・魚住昭著「ナショナリズムという迷宮」の中で佐藤氏が、「普通に思想と言われているものは対抗思想であって、世の中の大半の人がそれを思想だと意識しないで当たり前と思っていることこそが思想である」という意味のことを言っています。 対抗思想に依っている人はそのことに気がついていない(もしくは、気がついていてもそのことを認めたくない)ことが多い気がするのですが、そういう視点からみると、岡田さんの立場は十分に思想的だ、と私は思っています。
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高崎
at 2007-05-10 12:36
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sotaさんコメントありがとうございます。STスポットで、チェルフィッチュを見守り続けている曽田さんに90%も賛成いただいたことは、大変光栄です。
私が、「思想というものは、こういう形式を備えてなければならない。」というところで、伝統的な考えに縛られている面があるかも知れません。言葉の定義をどうおくのか、ということも含んでいる投げかけかと思うのですが、私にとっては自分を振り返るたいへんありがたいコメントです。
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chelfitsch at 2007-05-12 14:14
こんにちは。見てくださって、ありがとうございました。一つだけ、とても気になる記述がありました。「(僕が)アフタートークでは、それを「戦争との距離感」というテーマで語るのだが、四捨五入すれば無関心に属する距離感といって差し支えないだろう。」というところです。
四捨五入してしまおうとする心性は、ものすごく危険なことだと思います。
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sailitium at 2007-05-13 02:39
岡田さん、コメントありがとうございます。
情報量の多い現代人は大半の事象に対しては「四捨五入」で情報を整理し、判断せざるを得ないですし、岡田さんは物書きでもあるので、四捨五入は一切の例外なくすべて「ものすごく危険」とおっしゃっているわけではないと理解しています。 (同じような意味である「ほぼ」「大まかに言えば」「概括すると」「遠目から見ると」「鳥瞰すると」という表現も使えなくなりますし) なんでもかんでも四捨五入しよう。という心性は持ち合わせておらず、ケースバイケースです。 本当に素晴らしい舞台だったと思います。また、福岡にきていただけるとうれしいなぁ。
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