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福岡・九州地域演劇祭
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2016年 06月 21日
したため「文字移植」を見た。90分。
「文字移植」という実在の小説があるのだけど、その小説を4人で朗読するような芝居。 最初は長い暗転。の中での役者の発語。ちょっと地点風。独特の句点やイントネーションでの発語。 個人的には面白くなかった。 これは、証明が非常に難しいことだけど、演劇作品として有意義あるいは成立しているようにも思えなかった。 実験的な作品だとするなら、その実験は成功しなかったように思えた。 こういうかんじでやってみました。という実験性はあるし、装置や照明を始め器は小さく*とっているものの作品のクオリティが低いとも思えなかった。役者も良かったと思う。 *この盛り方で、前売2500円は高いなと思う。他地域から来ていることは差し引きたいが、上限100万の助成もあるから、やっぱ高いなぁ、、、 もちろん、なにかおもしろいところを見つけてやろうと前のめりで見るとか、演劇性のミクロの部分に着目してみれば、おもしろい部分もでてくるのだけども、そういう偏った見方は廃する。 一方、あまり関心なく見るとか、斜に構えてみるとか、批判という結論ありきで見る立場もこれを廃する。 ほぼ素舞台。舞台上に1m四方のアクリル板4枚。天井から吊られていて、床から1mほど浮いている。簡素だけども、縦の視界にも留意されていて、質が低いカンジはない。 4人で朗読を分担し、小説文中の人のセリフについては、役者がその役っぽく発語(朗読)する。 というつくりなのだけども、これが小説をわかりにくくさせた。 1)普通に小説を読む 2)一人の人が朗読する の方が、小説の世界はわかり易かったんじゃないだろうかと思う。 通常、演出家は文字で書かれたものを、演劇という手法でやることで拡大再生産するものだ。 もしくは、抑揚を大きくつけるか。 これが、縮小再生産になっているとしたら、演劇でやる意味はあまりない。 あまりないけども、そういうことをやりたいならやればいいんだけど、この作品には100万円を超える税金が使われているので、それにふさわしい公益がそなわっているかという視点での批評は成り立つ。 ただ、この公演は、昨年度のコンペティションに対する賞だから、その賞でどういう公演をやるかはカンパニーの自由であって、この切り口は直接的にはあまり有効ではない。 演劇って、キャラクターの設定が有る役の人がいて、それらの人たちの会話を通じて、物語や事象を展開するというお約束なのだけど、このルールは、観客に何かを伝えるためにかなり有効なルールだ。 (なので、伝統的な演劇が過去から今まで続いているわけだろうけども) 役は一貫していることもあれば、同じ人が何役もやったりすることもよくある。しかし、普通は、見ている側からはなんの役をやっているのかということは理解できるので、それなりの感情移入が出来る。 今回の作品は、意図してか意図せずしてか、そういう構造に挑戦してみた面がある。が、それがどういう効果を産んだのか成果を見て取れなかった。 アフタートークで「読書している感覚になった」という指摘があり、これは同感。演出家はそのことを前向きに捉えていたようったのだけど、小説の朗読を中心にした造りなので、その感想は当たり前というか、演劇で読書の追体験をやっても、価値として小さいんじゃないかと思う。 たとえば、ご飯を食べるような演劇を見せて、それでお客さんがお腹いっぱいになるような感覚を味わったとかなら、これはすごい成果だと思う。 あとは、なぜこのテキストを選んだのかということも、よくわからなかった。アフタートークを聞いたけども、そこに明確な意図はないんじゃないかなという気がした。 (わからないものを、わからないままやるというキーワードが出ていた) ○ なぜ、このテキストをやろうと思ったのか。 ○ この手法で、やろうと思ったのはなぜなのか。 やはり、ここがポイントになってくる。いろいろ考えてみたけど、どうにも思い浮かばない。そんなものがなくても偶発的におもしろいものが出てくることもあるが、それも不幸にしてなかったように思う。 だから、思いつきでやってみました。みたいなことになるんじゃないかと思う。 普通、演出家は1)脚本を読んで 2)解釈して、3)じゃあこんなふうにやってやろう。4)そうすれば、こういうものが届けられるはずだ。みたいなことを考える。 創作コンペティションで問われていることも、要はそこだ。 それがセンスがいいかとか、世に受け入れられるかというのはまた別の問題だけども、アプローチとしてはそうなる。 演出家は、私は世界がこうあるべきだと考えています。とか、私にはこう見えています。とか「提示」するもんだとして、、その「提示」がなかったように思う。極論で言うと、演出家が「文字移植」という小説と内向的に(いい意味で)遊ぶにとどまったというか 1)〜4)でいうなら、今回は2)3)あたりでとどまっていたんじゃないかという気がする。2)3)が不十分なように思えた。脚本によっては、そこをあまり考えなくても、構造上、感動をお客さんに届けられるものがあるが、今回はそういうテキストではなかったように思う。 あと、ラストシーンの走るところ。みんながぐるぐる走って、確かに肉体を使役することの真実性ってのはあるんだけども、最後にちょっと走っただけなので、演劇的成果としては小さいかなという感じがする。 終演時の拍手は悪くなかった。終演後10分の休憩を挟んでのアフタートーク。7割方のお客さんが残っていたように思う。 自分は上述のように思うけども、これは、作品が良かったということにポイントを入れる要素だ。
by sailitium
| 2016-06-21 11:25
| 観劇して|感想・批評
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