記事ランキング
検索
リンク
福岡・九州地域演劇祭
プロフィール たかさきの簡単プロフィールです。 PINstage たかさきの舞台芸術関係の活動の屋号です。 FPAP 福岡の演劇等舞台芸術を支援するNPO法人です。最近のメインはほとんどココです。 九州地域演劇協議会 九州内の6つの地域演劇支援団体により設立。 FPAP職員の日々之精進 FPAP常勤職員がおくる赤裸々日報。 制作者は語る(fringe) 全国の制作者による注目のブログです。 昨日 今日 トータル にほんブログ村 スパム対策でトラックバックには、送信元記事にこのブログへのリンクが必要になっています。どうかご了承ください 最新のコメント
最新のトラックバック
カテゴリ
全体 ●コメント前に FKRT 制作的なこと(演劇) 広報・宣伝、具体的な制作のアイディア チケット料金、動員 福岡・九州・地域の状況 観劇して|感想・批評 --------- トークの司会、企画の作り方 作劇のこと・テクニカルのこと 戯曲WS・戯曲のこと #復路のない旅 演出家、演出WS・セミナーのこと 制作者のこと 劇評・批評について 事務的な仕事をする上で 役者/演技のこと 劇場のこと 稽古場について 演劇祭について 芸術文化環境、一極集中、道州制 10年前なにがおこっていたか 釜山・韓国のこと 沖縄のこと ●企画 制作講座・勉強会 福岡・九州地域演劇祭 九州演劇人サミット ブラッシュ 大学演劇部合同公演 TAM 観劇ディスカッション DDシアター リンクP PmP パネルトーク 火曜劇場 東京物語 ステージスタッフWS LRT アゴラインターンシップ 環境の演劇WS ネットセミナー Meets! 2007(札幌福岡) 鐘下さん カラフル 世界劇場会議 一人芝居フェスティバル 指定管理者のこと FPAPのこと かげながら ●その他 Mac、PC、スマホとか 食べる、飲む、外食する ダイエット・運動 本を読んで 小ネタ、近況 さくてきな視点で(非演劇) 商品とか企画のネタ(非演劇) テレビドラマ・映画 #新型コロナ 腰痛 ライフログ
ブログジャンル
|
2005年 10月 30日
コンテンポラリーダンスの批評(感想・レビュー含む)は大変です。演劇の場合、脚本というものが中心にあることが多いので、ココだけを捉えてもそれなりのものはかけるでしょう。役者についても、良い役者ははっきりと良いものですし、ある程度経験があれば、どのような方向を目指しているのかもわかるので、未来志向の提言をすることもめちゃくちゃにハードルが高いというわけでもありません。
今回のWSでは、結局、「無理矢理解釈して、意味性を与えて、それを書き連ねて足りないところを補う。」ということしかできませんでした。講師の高橋さんからは「それもアリ」と言っていただき、「周囲の人が納得するかどうか」が価値基準として示されましたが、演劇と比べて、表現者の意図とまったく違うところで踊っている可能性が高いわけで、とりあえずはあまり表に出せるものではありませんね。 そもそもストーリー性があるのかどうかを判断することも難しいですし(芝居でも難しいのはありますが)意味性を与えるところでつまずいてしまったら目も当てられません。 それにもまして困難なのは身体性への言及です。意味性を与えてそれをつなぐだけでは、ダンスで最も主要素といえる、ダンサーの身体性にはかすりもしていません。 コンテンポラリーダンスの批評が小劇場系演劇と比べて少ないのは、こういったこともあるかもしれません。 また、高崎はコンテンポラリーダンス見始めて、そんなに年月があるわけでもないので、ダンサーの過去の作品をみて現在の解釈の要素にしたり、歴史性を題材にすることもできません。 そもそも批評を書くとして 1 事実報告 2 感想・印象 3 分析・解釈 4 評価 5 提言(こうすれば、もっとよくなりそう。) あたりの要素が入ってくるかと思います。2はまだ何とかなるとしても、それ以外は難しいです。ダンサーの技術的な巧拙については、勉強していけば何とかなるとしても、それで表現の本質を掴めるとも思えません。 高崎の場合、「感動の本質(主要素)を捕まえて、言葉にして発したい。」ということにつきますし、その表現の方向性を捕捉して、よりよくするための建設的提案をしたいということもあります。(それが、表現者に受け入れられるかどうかは、別問題です。受け入れられる関係性があるときにのみ、言うようにしています。) 批評の中には、感動の本質とあまり関係ないことを、書き連ねているケースがまれにありますが、学問的に価値があることだとしても、とりあえず自分のやるべき事だとは感じないわけです。演劇で言えばやはり脚本と役者が主要素ですし、脚本についても小ネタの部分ではなく、演劇世界を構成させるために脚本に練り混まれた本流の部分が対象となるのでしょう。 今回のワークショップを受けて感じたことは、コンテンポラリーダンスの批評は大変難しいという月並みな結論でした。 「諸国を遍歴する二人の大道芸人」 舞台の四隅には見慣れない楽器がおかれている。下手手前にあるのは「テルミン」だろうか。これらの楽器がどのように使われるのか観客は期待を持ち、巻上が奏でる様々な音楽が作品に彩りをそえる。 この作品では暗転の度にシーンが変わり、そこがそれまでとは違う場所であることが示される。また小道具としての「竹筒」が重要な役割を果たす。この竹筒は様々な役割を与えられることにより、その背後にある「変わらないもの」を観客に提示するのだ。 北村は、オープニングの早々から、まとっている衣装をぬぎすて、下着姿でのダンス。北村が発する親しみのあるキャラクターが、それを官能的には見せない。情熱的な動きも中和されて、悲壮な様子も見せない。 巻上の動きは、これは明らかにダンサーの動きではない。駅のホームにいるちょっと変な人のような印象。 作品の序盤は街頭で行われているパフォーマンスのようだ。二人は体を緊張させて、痙攣するようなあるいは足取りがおぼつかないような動きを見せる。巻上が時折発する奇声が、このシーンを成立させるためのジョイントの役割を果たす。しばし観客はこれがコンテンポラリーダンス作品であることを忘れるだろう。 中盤で、二人は竹筒のようなものを持っている。これはいったいどのように用いるのだろうか?観客の疑問を誘うかのように、役割を与えられない竹筒。やがて二人は竹筒をもってチャンバラのような動きを始める。真剣で決闘を始めるのだろうか? 観客のそのような思いをかろやかにかわして、二人は決闘ではなく武術の指導をしているような様相を見せる。二人は竹刀に見立てたのであろう竹筒を振る。二人の動きにはおかしみがあり、演舞のようにも見える。 竹筒を振るたびに竹筒からはヒューーという風を切る音がする。風を切る音にしてはやけにのびがよい。 実はこの竹筒は、笛だったのだ。 そして、二人はその笛を吹き始める。演奏しているのかあるいはじゃれあっているかのような動きだ。その印象はつまらないことでも目を合わせ談笑しあえる、仲の良い夫婦のそれだ。 やがて二人は笛を吹くことに疲れ、笛を構えたまま横たわる。その笛はいつのまにか、忍者がすいとんの術でつかう、竹筒になっている。 次に、北村は中空からたれさがった2本のロープに竹筒を結わえ、あたかもブランコ遊びでもするかのように1本ずつ、竹筒を放擲する。竹筒は音を発し、弧を描いて北村に元へもどってくる。竹筒を受け止め、また放擲を繰り返す北村。放っても放っても咆哮するかのように音を発し、北村の手元に戻ってくる竹筒は、それがなにかを象徴しているようでもある。その動きはだんだんと早さを増し、北村の動きもスピード感を高めていく。 役割を与えられない竹筒は、それが何物でもあるかのように様々な役割を与えられる。 このような構成の中、巻上のさまざまな楽器の演奏が行われる。それはリズムでもなくメロディでもなく、どこか遠くから聞こえるお囃子の音のようだ。その音は滑稽でもあり悲しげでもあるが、他者を突き放す拒絶感は一切無い。 この作品は暗転が多く入り、そのたびにシーンは転換し、観客は舞台が先ほどまでのシーンとは違う場所であることに気付かされる。この場面転換は常に、突然で、観客の心を突き放すかのようでもある。転換の度にスピーカーから大音量で流れるジングルが効果的で、これまでのシーンを洗い流すだけでなく、観客を突き放しはするが、無責任に放り出さない仕掛けとして、巧妙に配置されている。 変幻しさまざまな役割を与えられる竹笛。しかし二人の関係性は揺るがない。シーンが転換する度、変わっていく場所。しかし二人の関係性は揺るがない。それはあたかも、諸国を遍歴する夫婦(めおと)大道芸人の姿を見るようだ。繰り返される時空の中で観客は、ついに変わらないものを発見する。 我々は移りゆくものの中で、決して揺るがないものを見つけることが出来るのだろうか?
by sailitium
| 2005-10-30 10:11
| 観劇して|感想・批評
|
Trackback
|
Comments(1)
|
ファン申請 |
||