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福岡・九州地域演劇祭 ![]() プロフィール たかさきの簡単プロフィールです。 PINstage たかさきの舞台芸術関係の活動の屋号です。 FPAP 福岡の演劇等舞台芸術を支援するNPO法人です。最近のメインはほとんどココです。 九州地域演劇協議会 九州内の6つの地域演劇支援団体により設立。 FPAP職員の日々之精進 FPAP常勤職員がおくる赤裸々日報。 制作者は語る(fringe) 全国の制作者による注目のブログです。 昨日 今日 トータル スパム対策でトラックバックには、送信元記事にこのブログへのリンクが必要になっています。どうかご了承ください 最新のコメント
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2012年 02月 29日
世界劇場会議国際フォーラム2012で、10-BOX(仙台)の八巻さんが、10-BOXは若いアーティストがやりたいことを、制約なしにやれるような環境を作ること重視している。という趣旨の発言があり、それを「野生のフィールド」と表現していた。
自分も立場も基本的にはそうなのでとても共感する。 これに対し、衛さんから 公共施設を利用するにあたり、利用にかかる費用のうち75%(*1)は税金が投入されているだろう。若いアーティストは享受者にとどまるべきではなく、公共性を意識して、それを市民に還元すべきだ。そのためになんらかのアプローチを行なっているのか という、切り込んでいくような発言があった。 八巻さんからは、生活の問題もあり現状では難しい。という趣旨の回答があったように記憶している。 自分は、八巻さんの立場に近い。 アーティストが芸術成果やスキルを社会に還元するのはいいことだ。 アーティストのうち、ある程度の成功を収めた場合には、積極的にやって欲しいと思うが、そこにいたるまでは自分の表現をどうつくっていくのかということばかり考えた方がいいように思うし、どちらかというと育成を中心とする10-BOXがそれをやったほうがいいかどうかも微妙な部分がある。 だがこれまでブログで書いてきたように、世界劇場会議を通じて、衛さんの考えがなんとなく理解できると、当然そういう発言が出るなと思った。となるとどっちの意見もとてもよくわかる。 八巻さんの言う、アーティストは主に成長途中の若いアーティストの意味で「アーティスト」と使っていて、衛さんは、ある程度の域に達したアーティストの意味で「アーティスト」と使っているなら、何の矛盾もないのかもしれない。 レセプションでこのことに関して、衛さんと直接はなし、そういうことに取り組んでみたくなってきている。 *1 たしかにぽんプラザも利用料は1日2,3万円くらいだが、トータルの経費には1日10万円はかかっていて、たしかにちょうど75%だ! 2012年 02月 28日
(前回の続き)
横浜市は、とある施設を条例施設にするといろいろ制約が大きくなるからといって非条例施設として運営した。これはうまくバランスを取った好例として知られているようだ。が、これは表現は古いがウルトラC的な技で、凡人の中からまれに出てきた、スーパースターだからできたみたいな事だと思う。 また「中間でうまくバランスを取る」というのは、数値化しにくい価値判断が混ざってくるので、どうしてもグレーゾーンに位置する。ごちゃごちゃ言う人が出てきたら、長時間の説明を余儀なくされてしまう。 そういうクレーム対応っていうのは、コストがかかる。 多少のことなら自治体に任せてクレームは言わないってくらいの信頼関係があるとか、自治体が攻撃されたらちゃんとかばうよってくらいにならないと「中間でうまくバランスを取った」ことは、できないだろう。 失敗を恐れずどんどんやれという上司にかぎって、失敗しても一切かばってくれないみたいな。 指定管理者も非公募にすると、すぐ、官民癒着みたいに言う人がでるだろう。 説明責任という言葉が、納得させる義務みたいになってしまっているが、反対のために反対している人は、何を言っても納得しない。そもそも、最低限の知識も勉強しようとする意識がない人がいたりする。 判断するための時間は有限だからどっかで議論を打ち切って、白黒つける必要がある。それをちゃんとやっているのって、皮肉なことに大阪市長くらい。(大阪市長は判断の内容がまちがっているのか、意志決定の仕方が間違っているのかは、切り分けた方がいい。) それと、やっぱ市町村レベルの自治体任せでは、客席数や華美さを競って、そんなに離れていないのに、そんなに立派なホールが2館もいりますか?みたいなことになる。 自治体最適で考えるから、やや広域で見たときに不合理なことになる。舞台芸術ホールをどう設置するかとかは、もうちょっと広いエリアで考えた方がいい。 どこの自治体も弱い分野については、どうしようもなく弱いし関心がほとんどない。関心がある分野については、独自性を出そうとがんばる。独自性を出すというのは、他の自治体の手柄になるようなことについては、あまり協力したくない。ということでもある。 これは、意地悪でやっているわけではなくて、個人と組織というものの限界だと思う。なので複数の自治体で相乗効果を出すというのはほとんど例外に属することだろう。 宮崎県立芸術劇場が、九州から役者を集めてプロデュース公演している時空の旅シリーズなんか、とてもすばらしい企画で、九州各県の公立劇場が買う位でもおかしくないと思う。が、それが実現していない状況なんかを見ると。特にそう思う。 こんな風に、国政府と地方政府のあいだもうまくはいってないようにみえるし、地方政府間も同じだ。 基礎的な行政サービスは20万人くらいが単位になるのが、一番効率がいいと言われる。が、地域演劇は道州単位で考えるのがいいと思う。その規模がもっとも最適だ。 こういうこともあるから、道州政府は早く作ってもらって、道州単位で考えることがベストな分野は、そこで判断してもらいたい(地域演劇のためだけでいっているわけではないので、念のため)。 のだが、自分が生きている間にそうなる可能性は50%だろうな。 2012年 02月 27日
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スピリッツのホイチョイで、新入社員面接でパワハラNGを主張する入社希望者が尊敬する人物が織田信長!というオチがとてもきれいだった。 また、パワハラという言葉が出るときに、9割くらいは、半分ギャグで使っているとか、妄想レベルの被害者意識とかだったりだろう。しかし救われなければらならない1割もいるだろう。 しかし、こういう言葉が流布して、叱責を受ける機会を逃がして、成長し損なう人の方が多いだろうなとは思う。 * 羊飼いは、羊を見分けるらしい。ほんとかどうかしらないけど。 まぁ、人類の90%以上には、そんなことは無理だろう。訓練すれば別だろうけど。 まぁ、関心がない事項については同じように見えてしまうと言うことだろうね。 たとえば、「同じような●●の繰り返し」って表現があって、●●に、思いついた言葉は何だろう。 * (この国の将来の経済を支えるための)柔軟で独創的な考え方するためには、どうすればいいかわからないが、優れた芸術にバンバン接するのが一番良いんじゃないかってことが、少し信じられるようになった。 文学・美術・音楽・演劇などなどどれも素晴らしいが、なかでも演劇がもっともいいのではないかと思っている。 * なんとなくかっこよさげな言い回しではあるが、特に大したことはいっていないというか、よく考えればツッコミどころ満載みたいな言い回しがあって、そういうのにはだまされないようにしたい。 たとえば「今日戦えない奴が明日戦うといっても俺は信じない」とか。 あとは、 @sazae_f: コラ!カツオ!「日常とアートを繋ぐ」とか言ってないで、日常にアートが潜んでいることに…いいえ日常にこそアートが満ち溢れていることに、早く気付きなさ~い! とか。いや、かっこよさげな言い回しだと思う。素直に受けた。 しかし、アートは、日常にあるアートと、日常にないアートと二つの見方をすることが出来るとして、カツオがつなぎたいのは、日常の中にはないほうのアートだとすれば、いっていることは的が外れている。 「日常にない方のアートに興味があるんで・・・」とカツオにいわれれば、主張は一気に腰砕けだ。 日常にない方のアートにばかり心がとらわれ、日常にあるアートの存在に気づいてないとすれば、そこに目を向けさせるのにいい指摘ではある。 しかし、その場合は「日常にないアートを日常とつなぐ熱意には敬服するが、日常の中にあるアートにも目を向けていいのではないか?」というような言い方が正当だろう。まぁかっこよさげ感はないけれども。 最初にわざとややおかしいけどもパンチのあることをいっておいて、がーんとならせておいて後半の主要な主張部分を際だたせようという戦術と分析できる。意図しているかどうかは別として。 いやーー、俺は、何いってるんだ!! (おまけ) 「仲間が信じられないというのは、自分を信じてないと言うことだ!」みたいなのは、かっこよさげなだけで、80%の場合あまり意味はないと思える。こういうのは引いてみてしまう。 「一生懸命走ったとしても、転がるラグビーボールが取れるかどうかはわからない。だがな、一生懸命走らない奴がラグビーボールを取れることはないんだ!」は90%以上あたっていると思うので、こういうのはがーんと来る。 2012年 02月 25日
今年に入って、ずいぶん北九州に行っているなぁ。
庭、太陽族、テトラ、シアラボSB、MONO、魔笛、BEE(予定含む)。 普通なら往復3万かかるところが、3000円だから、お出かけの回数が増える。これは北九州に感謝ですね。北九州で落としているお金もあるので、そこで、釣り合っていればいいのだけど。 中劇場でかけるような芝居が、福岡でかかってないというのが大きそう。 小と大でいえば、それなりに拮抗しているように思うんだよね。ちょっと広い視野で見ないといけないけど。 福岡の中劇場といえば、まどかぴあだなぁ。まどかの大ホール(783席)、商業系のものをかけたら、採算ベースに乗るくらいこぞっていけばいいのに。距離の壁があるのかなぁ。 昔のメルパルクに行くのとそんなにかわんないという考え方でいけないだろうか。西鉄の急行が停まる駅から徒歩10分くらいというところで。JR沿線に住んでいるなら、乗り換えなしでいけるまどかのほうがむしろ近い。 統一された意志体として、小・中・大をもっているのと、バラバラでキャナルシティ劇場(1144)、まどかぴあ(783)、イムズ(300でいいよね)、ぽんプラザ(108)、とあるのとではまったく違うもんなぁ。それが福岡のイイところだけど。 ちなみに、この4劇場はそれぞれのクラスで福岡都市圏をもっとも代表する(またはしうる)と個人的に思っている劇場。 フェスティバルをみても、統一された意志体としてやるのと、みんなが自分がいいと思った料理を持ち合う的な形式との違いがあるよね(北九州の場合は昔の演劇祭の方だけど)。 どんたくをみても思うけど、そういう形式、統一性はないが、みんなが持ち合うという形式は、やっぱ福岡の個性なんだろうなぁ。 それだと、やはりクオリティに制約が出やすいのだけど、個性の一端とすべきだろうなぁ。 メルパルク・・・西鉄薬院駅から、徒歩10分くらいの所にあった。動物園の近く。博多駅からはバスが沢山出ているから、JR沿線から近いかどうかは微妙だけど、まどかはJRの駅から歩いていける(15分位?)。 まどかぴあ・・・西鉄の急行で、天神→薬院→大橋→春日原 急行なら天神から10分くらい。春日原駅から歩いて15分くらい。薬院は特急止まるので、電車時間・徒歩時間はともにまどかのほうが一回り大きくなるかんじではあるが、心理的なものも大きく、イメージのもっていきかたでナントでもならないかなぁ。 2012年 02月 24日
世界劇場会議国際フォーラム2012では、地方自治体のあり方についても、ずいぶんと意見が飛び交った。国立劇場を除く、公立劇場はすべて自治体が設置しているわけだから、それも当然だろう。
そして、大半は厳しい評価だった。 たとえば、指定管理者の議論になったときは、 「指定管理者については、非公募の選択権限も地方政府にあるわけだから、公募にして劇場運営に支障が出ているとしたら、適切に制度を運営できない自治体の責任であろう。」とか、 他にも 「芸術文化については、法律の縛りが緩いから、その分、地方政府が自由に発想していろいろやることが出来る。つまり、芸術文化行政が弱いとすれば、それは自治体の責任」 といったところである。 いや、もうこれは、その通りだと思う。 が、やはり、7割くらいのその通りであって、3割くらいは弁護の余地がある。(あるといっても3割で、責任所在の大半を認めないわけではないので、念のため。3割自治とも符合するね。) 自治体っていうのは、凡人の集まりと思えばいいと思う。その中に勇気ある決断をして独自の方向に動ける人がどれくらいいるだろうかと考えれば近い。なので、自ら積極的に動ける人は少ない。 規制でも、放置でもなく、国政府からのある程度背中を押すような働きかけは、過渡期の措置として、現段階では必要だと思う。 その他にも、世界劇場会議の議論で思ったけど、国政府と地方政府がお互いにお見あいして、間にボールがどんどん落ちて、芸術成果の機会ロスをしている構図を感じた。 芸術文化振興で言えば、国政府レベルの法律の仕組みはあまりない。ということは自治体は明確な意思を持てばいろいろやれる。なので、法律で制約をつくると、地方政府が動きにくくなるだろう。という考えはわかる。 一生懸命やっている地方政府はそれでいい。逆に、余計な法律を作ってくれるなということになるだろう。 が、大半の地方政府は文化芸術への目覚めがない。こういうところは、国政府が支援しますよ。予算もつけやすいように法律もつくりますよ。劇場で事故が起こったらまずいので最低限の基準もつくりますよ。といわれたら、基本的には賛成だろう。 この地方政府の割合が一生懸命やってるとこ1に対して、目覚めてないところ9位なんだろう。 指定管理者制度についても、同じ。 たとえば、指定管理者制度では、公募せずに団体を決めていいことになっている。 まぁ、しかし地方政府というのは、だいたいズブズブで乱脈にやってるか、きかせるべき融通もまったく効かせないほど萎縮してガチガチにやってるかのどちらかだ。その中間で上手くバランスを取ってやることが、ひっじょうに下手な組織だ(それは市民の責任もある)。 下手という方は、不公平で印象操作がすぎる言い方だな。上手ではないと言い直す。 (続く) 2012年 02月 23日
公共劇場とは何か?ということについて、なんらかの定義を持とうとする動きが、セッション3の半ばよりはじまった。
必ずしも各パネリストが定義に関する議論の収束を指向したわけでは、ないように思えたが、コーディネーターである草加氏の手腕により「公共的使命を持った劇場」というキーワードを用い、これまでの議論もふまえた公共劇場の定義がまとめられた。 以下のような内容だったと思う(高崎の記憶違いの可能性あり。抜けもある。議事録がちゃんとでるという話を聞いたので(未確認ですけど)そちらが正しいです。) 公益的な使命を持っていること。また、その意志があれば(公共劇場といいうる存在になれる)可能性がある (創造事業ではなく)貸し館をメインにしていたとしてもいい 創造という言葉をもっと広く捉えていいだろう。人が劇場に来てくれるのも創造の一つ。デジタル(的な判断で)、これが創造と決めないほうがいい。 ・公益的使命とは こども、教育 すぐれた作品・鑑賞者をつくる まちづくりをしていく 社会包摂機能、コミュニティ再生 説明責任をはたし、評価をうける ・文化機関であること 建物、設備、人材が揃っている 劇場という言葉は、建物ではなく、その機能も含めて ・公益的な使命は行政だけが担うものではないだろう。アーティスト・実演家、舞台技術者、NPO、鑑賞者もそれを担う こういうのがバランスよくまとまっているのが公共劇場。公益的使命は、時代によって変化していい。 このまとめに反対はない。賛成である*。 社会包摂機能が、他の項目と並列に置かれているのは、衛さんにとって、これでいいのかなぁと思った。他の項目よりも重要な価値と考えておられるのではないかと思う。 セッションの中で米屋さんが「アートの波及効果として社会包摂機能を発揮して、(社会的孤立者等を減らす)ということはあるかも知れないが、アートにはアートの本質的価値があってそちらが重要」という趣旨の発言をされ、衛さんもこれに同意しているが、バランスの違いというのがあるように思った。 アウトカムとしての最終成果が芸術指向か社会指向かでいうと、 衛さんは芸術3:社会7 他のパネリストは、芸術6~8:社会4~2 なのかなぁと自分には思えた。 これを、バランスの違いというか明確な立場の違いというかは、迷うところだけども。 自分は米屋さんの立場にいる。が、それは、自分がまだ優れた作品をバンバンプロデュースするとか、周囲にバンバンあるという環境にいないだけということかもしれない。だからこそ、衛さんの考えには非常に魅力を感じている。 * 参加者質問の時間で、全体への賛意を伝え、「創造」という言葉が、平田オリザ氏の言う「創造発信と市民参加は違う」という意見と、抵触するので、言葉の整理はあった方がいいのではないかという質問をした。 趣旨としては、定義への同意だ(←これが重要)。 言葉の定義の問題は、現場では結構重要だと思う。このへんの言葉をそろえておかないと議論や情報伝達に混乱がおこるのかも。結構今でも混乱があるように思う。 創造の意味を広くして創造事業は違う言い方を探してもいいし、その逆でもどっちでもいい。 公共劇場の要件たる「創造」に、来館者が来たことすら含むようなのは良くない。という趣旨では決してないので、念のため。 2012年 02月 22日
ある環境とアーティストの才能・努力が偶然出会うという、必然とか因果関係とかで、新たな表現がうまれてくるのだなぁと思った。
その反応が起こる可能性が1/10000だとする。その発生は偶然性に左右されるとする。だとしても、その実験を1000回とか10000回とかできるなら、それは確率論の必然の話になってくる。 (ほんとは最初から確率論の必然の話だけど) たとえはよくないが、鳥とか豚とかを密集して大規模に飼っていれば、インフルエンザの新種がうまれやすいとか。 これもたとえはよくないが、強烈な刺激があると突然変異が起きやすいとか、いろんな突然変異の大半は一代限りだが、まれに次代へと続き、まれに繁栄するとか。 新たな表現はそれがうまれてくる環境が必須なので、その環境のないところで外形を模倣しても、そこから次代はほぼ残せないだろう。しかしクオリティを備えれば、いい時間は作るだろう。 新たな世代がうまれて、それを模倣するものが増えて、一時代を築いたら次の世代がうまれるみたいな。最近はそれを特に人為的に起こそうとしている傾向も昔より強い。進化だと思うけど。退廃への近道でもあるように思える。 新しい演劇は、日本では東京でしか出てこないと思っていて、これも厳密に言えば、実験回数、強い刺激などによる確率の問題の話だろう。なんで、もっと言えば%でより精細に言うべきかも知れない。 (新しいのはでないと思っているけど、最高水準のものは十分可能だと思っているので、念のため) それと、ストーリー性、ドラマ性がある、またはない。みたいにいうと、何とでも言えてしまうよね。以前、ブログで書いた記憶があるが、花火大会やジェットコースターにもストーリーがあるといえるからね。 濃厚か希薄かとか、誤差あってもいいから20%単位とかでいいから%とかで言わないと言葉遊び、空中戦になるね。酔っぱらっているときはそれでもおもしろいけど。 演劇かダンスかみたいなのもそうだろう。 これは演劇orダンス?みたいな設問で、100人見て95人がダンスを選んだとしても、それは閾値(50%)でダンス寄りと判断した人が95人というだけのことで、どんなダンスにも「演劇性」はほぼある。意図的に人と違ったこと言いたいとか、その論理構成を披露するのが好きな人もいるだろう*。そこを拡大すれば「これは演劇だ」と言えるが、言い張っているだけというか、言葉遊びにすぎない。演劇の定義は、狭義から広義の段階が多いから、また難しい。 あるかないかの「点」発想ではなく、0-100の目盛りのどのへんかという「線」発想。 100人の人が、それぞれ0%-100%のなかで、演劇かダンスか、エンタメか非エンタメかとかを割合分配していく。そして100人分を並べる。和をだしてもいい(これを「面」発想として、面を見て線を出す)。そのような和はこれが相当程度にもっとも客観だろうと思っていて、実際は投票とかしないとわからないが、これをできるかぎり正確に推測したい。 (ほんとの二次元のグラフだと、言葉でやりとりできないこともあり) それと、福岡の地域演劇のエンターテイメント性とアーティスティック性のバランスは、昔はエンタメ系ばかりで、これは良くない。とおもっていて、数年前にいいバランスになってきてるなぁと思っていて、いまはちょうどいいくらいだと思う。 これ以上振れすぎると、一般の人をおいていってしまう。と思う。これは都市規模とかその他の状況にもよるだろう。 たたき台の数字をあげるとすれば7-3 それと、最近はっきり言語化したけど、その地域から全国区の表現者がでるのかどうかという判断、あるいは見切りというもので、その地域の公的なメニューはずいぶん変わってくる。政令指定都市クラスだと、この選択の決断をたいていしてるだろう。 自分は、絶対出てくると信じている。毎年一人とは言わないけど、それを強く信じている。もう出会っているかも知れない。 2012年 02月 21日
この前、クローバープラザにいった。西鉄春日原駅から、歩いて。
(JR春日駅から徒歩1分、福岡県の公共施設です。総合福祉、男女共同参画、人権啓発情報の各センターがあります。) 途中で、JR春日駅を横切る。道路や歩道は駅や線路を越えるために、立体交差で一度、高速道路みたいに高くなり、線路を越えて地面の高さに降りてくる。 JRの線路とがまちを分断しているように思えた。整理された、無機質なまちの印象。アスファルトが乗っかって呼吸していないような。 春日駅だけ自治体が費用出して地下化すると、とってもいいんじゃないかと思った。 心理的にも、経済的にも。 コスト的に見合わないか・・・やっぱり。 それとクローバープラザ。 あの建物は・・・・こわい・・・・・・ 車とかで前を通ったことはあった。中に入ったのははじめて。 まず、あのでかい階段こわい。あの階段を上らないと中に入れないように見える。というか見せようとしている感じ。中国の皇帝がいるんじゃないか的な。 実際は、登らなくていいしバリアフリーなつくりなのだけども、それは理性で考えればわかる。けど、ぱっと見た印象、直感が受け止めた印象が最初に脳やこころにねじ込まれる度合い的に、どうなんだと思う。 階段以外にも、角張ったギスギスした感じとか、屋上に乗ってる厳ついオブジェみたいなのとかもいかつい。 警察とか裁判所とかある程度、高圧的さや権威性が必要なら、それもいいとおもうのだけど、基本的には「県民ニコニコなかよく交流」みたいな施設なんだから、そのギャップどうなんだと思う。 県が、福岡市に集中しないようなバランスを考えてあそこにああいうのをつくったのは、とてもいいことだと思う。けど、ハードとして、いったいどういう経緯でああなったのだろうかと思った。 たまたまかもしれないけど、平日の昼間でぜんぜん人いなかったんだけど、土日とか、反対側に回ったりとかすればぜんぜんそんなことはないのかもしれないけど。 2012年 02月 20日
18日、土曜日は松田さんの戯曲ワークショップの最終回。最後は成果発表。それぞれがインスピレーションを得たエリアに着目しての都市日記fukuokaをプレゼン。
みんなのプレゼンがちょうど一時間くらいで、これがなかなかにおもしろかった。 もちろん、ストーリー性やドラマ性が明確で、ひごろ演劇をみない人にもたのしめる。という種類のおもしろさではない。 自分のこの企画への関わりに支えられている部分がある。各人ができるかぎり耳を澄まして受け取ったなにかを、テキスト化し立体化する。その過程で、ふくらむものなくすもの。その機微的なところやプレゼンされた内容。 それと、各人の都市日記を連続してみることで、福岡というまちのある種の集合無意識というか、劇作家達の切り取った複数の風景写真の連続が都市像を示す映像となって伝わってくるような感覚を覚えた。 成果発表のトップバッターは、熊本から福岡にくるバス車中を題材に始まったことにも、ストーリー性を感じた。 松田さんが、これ再演したいよね。とおっしゃてて、自分もそのような思いになった。 あ、それと、ブログにこんな風に書いていたけど、そこは大きくは変わっていない。 翌日(昨日)は、東京デスロック観劇。 こちらは、自分にとってはなかなかすごい作品だった。凄烈というか。ぅおー、すげぇーな!という感想。 5,6種類くらいの曲と、曲にあわせてのある程度定まったふりつけがあり、それを繰り返したり。85分中、70分くらいをしめていたかな。 セリフは2,3カ所で、時間にして5,6分くらい?音楽の占める割合が大きかったのも特徴かも知れない。 ジャンルでいえば、コンテンポラリーダンスに近いかも。 こちらも、ストーリー性やドラマ性が明確な万人受けしやすいタイプの面白さとは違うおもしろがさがあった。 自分の客観視点的なバランスで言うと、1,2割のお客さんが感動し、2,3割のお客さんが楽しめ、5,6割のお客さんをおいていった。という読みなのだけど、今回の客席は、楽しめた人の率が高かったようだ。自分もラッキーだった。運不運のことだろうと思う。 「最初は難解に思えたが、同じ事を何度繰り返すんだろうと、数え始めるところから楽しめた。」というアフタートークでの観客の感想があったが、それぞれ自分の引っかかりを持てるところをさぐって、みていたようだ。 大量消費社会・高度文明社会、そこから来る人間疎外。言葉にしちゃうと20%も拾えないような気がするけど、そんなところなのだろうか。 楽しんでも、もがいても、誰ともつながれていない(ダンサー、物理的接触なし)みたいな。消費の飽食の中から出てくる表現のように思えた。 自分も、なんとなく自分なりの引っかかりを見つけて楽しめた。 こういう作品が出てくる背景とか、この作品の社会的意義とかを考えてしまい、他国で評価されるのもわかるような気がした。 More 2012年 02月 17日
(続き)
世界劇場会議国際フォーラム2012は、公共劇場とはなにか?をメインテーマにしていたが、第五世代の劇場や公共劇場がどのようなものか、引き続き考えたい。 まず、第五世代の劇場と衛さんの言う「公共劇場」が、同じなのか、近似なのかよくわからないが、多くの部分が重なるのではないかと思う(高崎が混同している可能性もある。以下混同したまま続ける)。 ヒントとなる言葉としては、世界劇場会議の中の発言である 「おそらく(今の日本には)公共劇場はない。」 「(そのまちで)餓死者がでたら、それがは劇場の敗北だ。」 「そういう劇場が、日本に10館くらいあるといい。」 (以上、高崎の記憶違いの可能性あり) また、2月16日にツイートされていた 「劇場音楽堂等の法制化で議員会館に行ってきます。社会的孤立を含めた社会的排除と闘う施設として公立の劇場ホールはその使命を果たしていくべきと音楽議員連盟の先生に話をしてきます。アーツの力が社会に反映されてこその劇場ホールです。」も十分なヒントになる。 第二世代から第四世代の劇場が、一歩進んで 劇場内での貸し館・鑑賞提供・創造・体験事業にとどまらず、積極的なアウトリーチや、ハードソフトの活用をおこない、市民に愛され市民が集う場所にしよう。そうやって地域作り、まちづくりに貢献しよう。 という所にいるとして、 (これを2.5世代、3.5世代、4.5世代の劇場ととりあえず言うものとする) ↓ (転回点) 劇場が、コミュニティ形成に他の機関よりも大きな可能性を持っている。それを固く信じている。そして、あらゆる機能を積極的に活用しなければならない。 ↓ (第五世代劇場・公共劇場) もし、だれにも知られない孤独な餓死者を出したとしたら、それは公共劇場が果たすべきコミュニティ形成に失敗している、すなわち劇場の敗北であり、公共劇場の責任を果たしたとは言えない。 という段階を経るのだろうか。 会議での衛さんの発言は、このような理念の元になされていたとすると、すべて納得いく。 第二から第四世代の劇場であっても、それらの事業を経て、公民館・学校・病院以上にコミュニティ形成を指向すれば(2.5世代、3.5世代、4.5世代)、それは第五世代の劇場となりうるようだ(九州ではアイアンシアターが一番近いように思う)。 そして、第二世代から第四世代の劇場は、地域社会への非芸術部分での貢献に対して、アウトプットが求められるが、第五世代の劇場ではアウトカムが求められているといっていいかもしれない。 第二から第四世代の劇場は、比較的に横並びに考えることが出来るが、第五世代の劇場は、それらと横並びに考えることが出来ないのではないかという点については、今後より検証されねばならないように思う。 (続く) < 前のページ次のページ >
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