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福岡・九州地域演劇祭
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2009年 05月 25日
創作コンペの感想をまとめてみた。
文章が長文になったのと、誤解を受けそうな内容になったので、しばらく公開は控えるとして、その感想は大きく3つにわけることができる 1) 企画全体、主催者に関する感想 2) 公開審査、審査員に関する感想 3) 3つの芝居に関する感想 このうち3)については、作品への批評的なことも含むのだけど、こういう勝負する舞台に出てくるカンパニーさんは、真摯に受け止めてくれるだろうと考えてブログに書いてみることにする。 (前提:作品全体の評価と演出の仕事の評価は、切り分けて考える必要がある。) ●3つの芝居の演出、甲乙はつけがたい 3つの芝居の演出を見た感想であるが、演出の仕事という点でいうと、甲乙がつけがたい。 ・F融合科学研究所(以下「F」) 課題戯曲の中にある「言い争い」という「闘争」部分にスポットを当てていた。それを明確化するものとして、舞台上の装置としてリングを採用。この部分がこの芝居での他の演出効果にくらべ際だっていた。 また衣装にボクサーパンツを使用していた。 舞台前面の上手下手の移動で客席通路部分を役者が動いているのが気になった。リングがあって場所が狭かったから以外の理由がみつからず。 ・柿喰う客(以下「柿」) 二人の若手芸人が持ちネタである課題戯曲「結婚申し込み」の練習をするという設定。課題戯曲を大きく改変。 脚本の上の演出で勝負するというかんじではなく、演出が脚本と対等の立場に立って勝負するというかんじ。3つの芝居の中でもっとも特徴的。こんな手で来るとは、想像もできない裏切り方だった。 課題戯曲の構造である「プロポーズをしにきたが、違うことで言い争いになってそっちがメインになる。水掛け論で話がループする。」という部分を、若手芸人の練習を通して再現する。 若手芸人がどこで練習をしているのかは不明だが、お笑いの師匠的な人が来たり、ファンの女子高生が来たり、水着の女性が出たりして、練習は度々中断し、やがて再開する。 この闖入者のセリフは、若手芸人への励ましであったり非難であったりするが、そのセリフでこの課題戯曲への懐疑が語られ、演出家の持つ現代への意識(うすら寒さ)が提示されていく。 課題戯曲は当時のロシアの環境では、喜劇としての画期的な面がありエンターテイメントとして新鮮に面白かったのかもしれない。しかし、現代の環境では、あらゆる試みがなされ、本戯曲の価値は失われているのではないかという投げかけまでされる。 ここまでやったことが、公開審査ではファール(反則技)ではないか?という意見につながる。 ・爆走蝸牛(以下「蝸牛」) 舞台に色添えする演出効果のアイディアが多数盛り込まれていた。 ・博多弁の使用 ・下手の一部分しか役者が使わない ・その一部分しか狙ってない、全体が見えにくい照明 ・女性の役を男性が演じる ・3人の役者は客席に背を向けたようなポジション ・翻訳物っぽい衣装 ・マイクの使用 ・戯画化されたイラストを映像で使用 役者の演技はテンポが良く、技量にも優れ、時に愉快さを含む。観客としてみたときに、普通にもっとも楽しめるのは、爆走蝸牛であっただろうと思う。 しかしながら、演出の仕事としてみていくと、上記の多彩な演出効果が作品を面白いものにしたわけではなさそうだ。おもしろかったのは「役者の技量」によるもので、この芝居の面白さはおそらく演出の仕事ではない。 だけども、これらの演出効果が役者の演技の妨げになっていないことは認められると思う。 いろいろな演出効果も、脚本の分析に基く必然性によって打ち出されたものではなく、「こういう手法を取り入れてみたい、それで作品が面白くなる。」というものであるように思えた。 企画の趣旨からいって、おそらくそのような演出的思考の流れではよくなくて、本来は、「この脚本をこのように読んだ。この部分をより効果的に観客に伝えるためにはこのような手法が必要である。」という流れにならなければいけない。 (それは後から理論化されるということでもかまわない。演出が直感的に取り入れた手法が効果的なら良いのだ。これが可能であれば「成功」といえるだろう。) 3つの芝居をならべてみたときに、Fと爆走蝸牛は脚本の上で戦ったのに対し、柿喰う客は脚本と演出がまず対等な立場に立ったという点で、対照的であった。 この点が公開審査では物議の対象となり、ファール(反則技)ではないか、という審査員の百瀬氏の意見につながった。 3つの芝居を概括的に見ると、奇矯さを競いながら、戯曲の作品性を引き出すとか一般の観客を楽しませることには、副次的な配慮しかされていなかったと感じた。それは演劇としてどうなんだろうという意見も成り立つかも知れない。 しかしながら、一本一本の作品でみていくと、印象は異なる。 創意工夫を懲らし、それぞれの団体の手法で、課題と取り組んだと思う。 一本一本の作品やそれにかかわった人々に対し、創作者への敬意を感じざるを得ない。いずれも、見応えのある作品であった。 3つの芝居を概括的に見たときに、まったく違った見え方になるのは、参加団体の問題ではなく、企画内容の話だといえる。 ○柿の芝居について、もうちょい私見を述べる。 現代を生きる身体性と過去の戯曲の接点または折り合いをどうつけていくかが、柿の演出のテーマであった。これはパンフに明記されている。 (今ここにある「カラダ」と、昔あった「ネタ」との、距離感をもったグルーヴ) 今回、柿の二人の役者が若手芸人を演じることには、違和感はなく、身体性の面での親和性を感じた。 土地がどちらのものであるかとか、どちらの飼っている犬が良いイヌかとか、小学生レベルの言い合いを中心とする関係性は、純朴な昔のロシア人ならば成立するとしても、現代の役者の身体性ではおそらく表現が難しい。 課題戯曲の構造を再現するにも、新ネタの練習をする若手芸人という設定はうってつけであった。(プロポーズをしにきたのに、その話がなかなか進まないとか、おなじような会話が繰り返されるとか) 最後の倒れるところの動きをどうするかというネタ合わせの部分で、若手芸人の水掛け論のような言い争いが行われたが、ここも課題戯曲構造の再現だ。そのやりとりは設定からして自然であるし、脚本構造の現代的身体性による再現をおこなっていた。 普通、元の脚本があってここまで「邪道」な組み替えをすると、うまく処理できない部分が多々残る。若手芸人以外の設定でここまで脚本の構造と相似形の形を提示できなかっただろう。 この設定にいきついたことはある種、奇跡的なことじゃないかとも思う。 ●3つの芝居の演出を評価する 3つの芝居を評価していくと、脚本の読み込み、構造の分析、脚本から出発したアイディア、それを再現するための無数の試行錯誤、回答にいたった成果、という部分で柿の芝居での演出家の仕事ぶりは、圧倒的と言える。 しかしながら柿は、一時のプレゼン審査で主張した「小道具を持ち替え、受け渡すことで、役が変わっていく」と、違う演出方針の芝居になっていた。 これは、この時点で、失格判定とする。というのもありだろうと思う。柿としても確信犯だろうし。 (公開審査では明示されなかったが、百瀬氏が強く主張し、なんとなくそういう判定になったっぽい。) 次に、脚本の面白さがどこあるか、という点を煎じ詰めて「闘争」とし、舞台装置を中心にそれを再現したFも、脚本の読み込みや分析、脚本から出発したアイディア提示をおこなっていたといえる。 しぶとく生きる様、生活感を洗濯もので表現したりしており、これも当時の時代背景に対する解釈を表現したものといえる。 しかしながら、これらは多分に記号的な表現で、演劇表現として効果があったかは微妙な問題が残る。むしろこれについては、安易と言っていいかもしれない。 役者の技量という点で、Fの役者には他の2団体と比べ伸びしろが多く残されている。しかし、舞台経験豊富な他の2団体の役者よりも、Fの演出家が演技指導、俳優育成という点で、良い仕事をしたという可能性がある。 最後に、蝸牛だが、これは脚本構造の分析という点では、他の2作品と比べてそれが行われていないように思えた。多彩な演出効果の採用には脚本からの必然性が感じられない。これは前述の通り。 脚本構造の分析を必須の演出の業務だとすると、その軌跡が見えない作品に「演出賞」を出すのはまずいかもしれない。 (本当はバッチリあるのかも知れない。高崎の眼力不足で見抜けないのか、演出の技量不足で伝わらないのか両方の可能性がある。) しかしながら、結果として、作品全体の印象としては、もっとも観客にとって楽しめるものになっていただろう。しかしそれは、役者の技量で演出の仕事ではない。これも前述の通り。 (演出のかなり細かい演技指導で、あそこまでもっていった可能性はあり、その場合は演出の仕事。蝸牛の役者=巧者というのがあるので、可能性は低いはず。こういうことを考えないといけないので、「演出」でみるのは難しい。) 蝸牛の演出で見逃せないのは、「チラ見するテイスト」というところだろう。 演出家は以下のような思考を経たのではないかと推測する。 1 課題戯曲の子どものような言い合い、土地の問題についてくだらない言い合いをしたり、どちらのイヌが優れているかで言い合いしたりは、現代ではあまりないものである。 2 喫茶店で隣の客が口げんかをしているのをチラ見するという構造ならば、このような場面を演劇性を持って現代でもありうるものとして再現できるのではないか。 この演出家の意図は、個人的には成立していたと思う(ここにスポットを与えれば蝸牛の受賞は妥当だと思う)。 しかしながら、演出としてはこの部分により特化した形であった方がよかったかもしれない。たとえば、より具象的な喫茶店にするなど焦点をそこにしぼり、さらに結果として芝居が「成功」していれば、文句なく、蝸牛に賞が与えられるべきだろう。 蝸牛が脚本から得たこの着想は、その他の多彩の演出効果よりもそれが脚本から生まれ出たという意味で重要である。その他の多くの演出効果はにぎやかしであって、そのにぎやかしで脚本から着想を得た重要な視点を薄めてしまったことは惜しまれる。 (もしかしたら、すべて脚本分析からの必然性による演出効果なのかもしれないが) で、どこを選ぶかといえば、柿を過半の審査員が失格と判定しないならば柿、失格なら蝸牛だろう。 この結論は、結局審査員5人の空気感とほぼ重なる。 公開審査では、これまで書いたような演出の仕事に言語を持って分析してせまるということがあまりなかった。結局受賞理由も不明瞭だったように思う。例えばチラ見の一点で蝸牛。とかならばわかるのだけど。 作品全体印象での一般観客投票ってことなら、分析言語化抜きの印象投票で良いと思う。 公開審査では、演出のやりたかった事への分析、言語化をもっとやってほしかったなぁ。 最終的にもっとも楽しめた的な、作品全体の印象で最後に決めてしまい、これはまずかったのではないかと思う。 --------- 1)2)についても、同じくらいのボリュームの感想があるのだけど、これはまた機会があれば。
by sailitium
| 2009-05-25 12:27
| 観劇して|感想・批評
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Comments(2)
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sailitium at 2009-05-28 12:35
この件、爆走蝸牛の村上さんから、ブログ上で反論をいただいています。
http://blogs.dion.ne.jp/muppe/archives/2009-05-1.html#8412745 ワタシがブログで書いた事への批判は大歓迎です。 自分のブログ上と言うことは、完全に実名ですし、大感謝です。 ありがとうございます。感謝します。 しかも村上さんも役者ででられているので、立場上書きにくいというのもあるなかで、書いてくれたことについてもさらなる感謝です。 もちろんご主張の内容について、自分の意見を修正しないといけないところもあるし、反論しないといけないところもありますが、まずは、感謝の意を伝えたいと思います。 村上さんのブログについて、教えていただいた方にも感謝します。
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たかさき
at 2012-02-20 22:01
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当時は猛反発を食らったものですが、私の意見はどうやら正しかったように思いますね・・・
謝罪とまでは言いませんが、なにかあっていいのではないかと思っています。 「プレゼンを見ながら”粉飾することから考えることは演出ではないんだな”と再認識。前回、コンペに応募したのはプレゼン審査を受けたかったから。そしたら審査員の”なぜこのアイデアが必要なのか"という質問にうまく答えられなくて・・・。ただの思いつきの演出だったと気付かされたことを、今回のプレゼンを見ながら思い出しました」(wa50号)http://www.ffac.or.jp/magazine/back_number/backnum40_59.asp
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